熱いコーヒーで体を温めていると、目の前に幻想的な風景が広がっている事に気付いた。
ここはカナダユーコン準州のジョンソンズクロッシング。これから始まる長い川旅のスタート地点だ。目の前を波一つたてず流れるテスリンリバーは、ここから200Km先で大河ユーコンと合流しアラスカを横切り、3000Km先のベーリング海へと注ぐ。
「ユーコン」と言う言葉の響きと極北への憧れだけで日本を離れてからすでに1週間が過ぎている。
ジョンソンズクロッシングへ着いたのは昨日の夕方の事だった。
ユーコン準州の州都であるホワイトホースから車で2時間。チャーターしたバンに乗り込み一路ジョンソンズクロッシングを目指した。車窓から針葉樹と荒々しい岩肌を見せる山々をぼんやりと眺めていたが、地上最強の生き物と言われるグリズリーのテリトリーに足を踏み入れる緊張感に心は縮こまり、ドライバーの手に汗握る運転は体の筋肉を硬直させた。これから始まる一人旅への恐怖心に押しつぶされそうだった。しかし、そんな巨大な動くぬいぐるみや土埃を上げて疾走するジェットコースターの恐怖はやがて、日本との時差による眠気に敗北し気づけば心地よいゆりかごの中にいた。
目が覚めると、ドライバーはお前の降りる場所だと告げながら車の後ろから荷物を下ろし始めた。20Kgの折りたたみ式カヤックと30Kgはあるキャンプ道具一式の荷物を車から降ろしていく。それを手伝いながら、彼の腕と自分の腕の太さの余りの違いに目を奪われてしまった。こんなひ弱な自分がはたして、自分の力だけで前に進む事ができるのだろうか。さらに弱気になってしまった自分一人を残し彼は車に乗り込む。「楽しんでこい」の一言を残し去って行く車を見えなくなるまで見送った。なぜこんなところまで来てしまったのかと自分に問いかけながら。
荷物のチェックを済ませ、旅の始まりを祝うビールを開けるが、恐怖心が先にたち全く酔う事ができない。豪快に食らう予定だった夕食のハムステーキも、喉につっかえそうな肉の塊をビールで胃に流し込むだけだった。わずかな風の音にもびくつき川の流れる音がクマのうなり声に聞こえた。銃は調達できなかったが、腰にはクマ撃退用のペッパースプレーがある。何度もスプレーのセーフティーをはずし、打つ姿勢まで持っていく練習をするが、自分がその場に立ったときに冷静に対処できるほど肝の座った人間でないことはよく分かっていた。そんな自分に打ち勝つために旅立たなければいけないと言う事も分かっていた。しかし、自分の妄想の中にある恐怖に打ち勝つ術は分かっていなかった。ただ、ただ、怯え、小さくなって、自分が弱い生き物である事を理解するしか無かった。
酒の助けを借りる事をあきらめ寝袋に潜り込む。締め付けられる様な心細さに耐えながら目を閉じた。どれくらい経ったろうか。寝袋の心地いい暖かさは、恐れからの逃げ場所となりいつしか眠りを与えてくれていた。
白夜の季節に明確な朝と言う概念は無い。起きた時が朝であり、寝るときが夜である。自分にとってのその日の朝は、始めなければいけないと言うなかばあきらめの気持ちで迎える朝だった。暖かい寝袋から起きだし、少し肌寒いテントの外へ出る。寒く感じる自分がいると言う事は、どうやら無事に旅のスタートは切れるようだ。
熱いコーヒーで体を温めていると、目の前に幻想的な風景が広がっている事に気付いた。荒々しい極北の風景の中で、朝もやが静かに流れるテスリンリバーに優しくかかっていたのだ。それは強い者しか生き残れない厳しい大地に舞い降りた天使のように見えた。確かに何かを語りかけているその風景は、しかし、今の自分では聞き取る事のできない言葉を話していた。
旅の終わりには、それを聞き取る事ができるのだろうか。
「楽しんでいこうよ」
そう呟きながらカメラを手に取る。波の音も風の音も無い静寂の中に天使達を切り取るシャッター音が、こだました。