ユーコンをフネで下れるのは、1年の中で2〜3ヶ月ほどだ。年間のほとんどは固い氷に閉ざされている。水が滔々と流れる夏でも、太陽が照りつけるときには肌に痛みを感じるほどの暑さだが、ひとたび太陽が雲に隠れると上着を重ね着しなければならないほど寒くなる。しかし、どんなに極寒の季節が訪れようと、暗闇が大地を支配しようと、そこには風が流れ、生き物たちの声が響き、オーロラが光をもたらしてくれる。とてつもなく長い時間繰り返されてきたこのリズムの中で、ここに住む全ての生き物たちはそれを当たり前として生きてきた。あるがままに生きていくことの暖かさが、この川には満ちている。
フータリンカを出発して数日が経っていた。いつものように手頃な場所を見つけテントを張る。キャンベルのスープ缶で味付けしたパスタを山のように食べ、焚き火の前でウィスキーをちびりちびりとやりながら本を読む。環境のせいなのか、ユーコンで本を読むと普段の数倍、文章が頭に入ってくる。登場人物たちの感情が、まるで自分に乗り移ったかのごとく感じられ、それがたまらなく心地よかった。
そろそろ本を読むことにも疲れてきた。テントに戻り、寝袋に潜り込む。寝袋の湿っぽさを感じながら、そろそろ干さなきゃなと考えたところで、意識は夢の世界へ旅立った。
どれくらい眠ったのだろう。ふっと現実世界に戻ると、目の前には見慣れたテントの天井が見えた。もう少し夢を楽しもうと目を閉じた瞬間、外で何かが動く気配を感じた。クマか? 一気に鼓動が早くなり、息が荒くなる。枕元に置いてあるペッパースプレーをたぐり寄せるが、それは汗ばんだ手の中でカタカタと小刻みに震えていた。意を決し、そっとテントの外に出てみる。ペッパースプレーのセイフティーを外しいつでも撃てる体勢のまま360度見回してみるが、そこには寝る前と何も変わらない風景が広がっていた。
気のせいか。スプレーのセイフティーを戻しながら、こんなことで怯える自分が可笑しかった。クマがいたっておかしくねーじゃん。ここはクマの国なんだから。俺もまだまだ小せぇなぁ。雄大なユーコンの中にいる小さな自分が、分けも分からず可笑しかった。
再び寝袋に入り目を閉じる。眠りに落ちる直前。やっぱなんかいる。先ほど自分の目で外を確認したにも関わらず、その感覚は確信として感じられた。
絶対何かいる。
再びスプレーを握る右手は、自分を撃ちかねないほどガチガチに固まっていた。音が出ないよう、そっとそっとテントのジッパーを開ける。すると2〜3メートル先にさっきまではなかった巨大な黒い固まりがそびえたっていた。
ムースだ!
馬を一回りくらい大きくしたそいつは、テントの目の前にある木の葉を食べることに夢中で、こちらには尻を向けている。まさかこのドーム状の物体の中にヒトがいるとは思っていないようだ。
世界最大のシカであるムースは決しておとなしい動物とは言えないが、こちらから威嚇をするようなことをしなければむやみやたらに攻撃を仕掛けてくることはない。しかし、この距離で突然ヒトに出くわした時の行動は予想がつかない。スプレーのトリガーに指を掛ける。テント内に座ったままいつでも撃てる体勢をとりながら、この生き物に苦痛を与える理由は何なのかと言う疑問が、ふっと浮かんだ。さしあたって自分に身の危険が迫っている訳ではない。こいつを食料にしなければいけないほど腹も減っていない。ペッパースプレーを浴びたところで命がなくなる訳ではないが、お互い同じ生き物として理不尽な苦痛は与えたくない。
そうだ。自分は何も見ていないのだ。
その思いつきに妙な納得を感じ、再びセイフティーを戻し、そっと寝袋に入る。見てない見てない見てない。ムースなんて。
無理矢理に目を閉じると、テントの布を隔てただけのほんの数メートル先の生き物の鼓動と息づかいが聞こえてくるような気がした。ヒトと呼ばれる生き物と外見は全く違うその生き物も、自分と同じように心臓が鼓動し、血が流れ、呼吸をしているという当たり前のことに不思議さを感じていた。
ユーコンに暮らす生き物の気配が薄れていくのと比例するように、再び夢の世界が近づいてきた。