空想は、あらゆる場所への旅を可能にしてくれる。
たとえ深海だろうと宇宙の果てだろうと。それは何者にも邪魔されることのない、まだ見ぬ風景への招待状だ。
朝から肌寒く、空を見上げるとぽつりぽつりと雨粒が落ちてきていた。こんな日は一日テントの中で読書と決めていた。わざわざつらい思いをしてフネを出すこともない。
寝袋にくるまり、熱いコーヒーをすすりながら文庫本の推理小説を読んでいた。緻密な計算のもとに行われた殺人事件の捜査は暗礁に乗り上げていた。真犯人を推理するのにも疲れたころ、新しいコーヒーを沸かすのを期に手にしている本をアラスカのガイドブックへと持ち替えた。
パラパラとページをめくっていると、ユーコンの風景とは違う、光に輝く白い山々やオルカの泳ぐ青い海の写真が視界を流れていく。大きなカーブを曲がっても針葉樹と荒々しい山肌だけの、さほど変わらないユーコンの風景に慣れてしまうと、その色彩は憧れにも似た思いを沸き起こさせた。
とくにこの旅の終着点を決めている訳ではなかった。しかし、この旅を始めて一ヶ月近くが過ぎている。そろそろ終着点を決めてもいいのかもしれない。そしてそれはまた、次の旅のスタート地点を決めることでもある。
あと数日フネを進めると、ユーコン流域ではホワイトホースに次ぐ大きな街、ドーソンに到着する。再び人であふれる地に足を踏み入れることになるのだ。
自分と同じ種であるヒトが傍にいることは居心地がいい。この旅の終着点として、ドーソンは都会に戻るためのアクセスも整備されている。しばらく旅の疲れを癒して次のスタートラインに立つのも悪くないかもしれない。
憧れだけでやってきたこの地で、食べ物を食べ呼吸をし鼓動を繰り返す。ここに住む生き物たちと同じリズムで同じ景色を見てきた。その当たり前のことがたまらなく心地よく感じられた。しかしそれはまた、臆病で小さな自分を痛いほど感じさせることにもなった。
ジョンソンズクロッシングで震えながらフネを押し出した時から、この旅はスタートした。ここまで、自分は何を得ることができたのだろうか。川の音、風のささやき、生き物たちの会話。彼らの話し声は、まだ聞き取ることは出来ない。
そうだ。
自分はまだ何も見ていない。まだ何も感じていない。
ここで旅を終わりにすることは、自分の憧れを憧れで終わらせてしまうことになってしまわないのか。
テントの中から見える、代わり映えのしないユーコンの景色を眺める。急速に心の中でその風景への愛おしみとも思える感情がわき上がってきた。
自分はまだ、スタートラインにも立っていない。
まだ小雨の降る外に出てみる。
頭にかぶったパーカーのフードにあたる雨粒の音が、何かをささやいてた。