カーマックスから4時間ほどフネで下るとユーコン川最大の難所、ファイブフィンガーラピッツが待ち受けている。4つの大小の岩が河の水を5つに分断しており、その流れが手の指のように例えられることから名前がついた。水量の多い季節には、ユーコンの流れがその岩にぶつかり、巨大な力を持った波を作り出す。ゴールドラッシュ時代、採掘された金や一攫千金を狙った荒くれ者たちを運ぶ船がここを通っていった。岩の壁面にはその船を遡上させるためのワイヤーが今も残っている。
フータリンカで感じた人の温かさは、人間のあふれるカーマックスでは当たり前の温度になっていた。人の生活する音で目が覚め、テントから顔を出せば目の合う人がおり、挨拶をすれば声が返ってくる。食料はなんでも手に入り、楽をしようと思えば注文するだけで暖かい料理がテーブルに並び、食べるという行為のみで腹が満たされる。なにひとつ不自由のない生活は、この時間が永遠に続くのではないかという錯覚を起こさせる。しかし、我々は旅の途中だ。キャンプ場でビールを飲みながらの話題がいつ出発するかに変わり始めてから、1人2人と再び旅人に戻っていくまでそう時間はかからなかった。
がらんとし始めた川原で、暗い顔をしながらフネに荷物を積んでいる胸板の厚い屈強そうな男がいた。タバコをふかしながら、「いよいよファイブフィンガーだな」と声をかけると泣きそうな目でこちらを見つめ「そうなんだ…」と消えそうな声でつぶやいた。
その男を笑顔で見送り自分のテントに戻ると、静まりかえったキャンプサイトに胸が締め付けられた。酒を飲み交わした友人たちの姿は幻だったかの様に消えていた。もう二、三日ゆっくりするつもりだったが、人のいない温度の中にいることには耐えられそうもない。干していた衣服を生乾きのままドライバックに詰め込み、テントをたたみ全ての荷物をフネに積み込んだ。この静けさから逃げるように岸を蹴った。
ユーコンの瀬を超えるためのコースは全て右側にある。ファイブフィンガーも例外なく右側のコースが安全とされているが、あえて別のコースにチャレンジし、あえなく撃沈して命を落としていく者が毎年後を絶たない。
ファイブフィンガーまではまだまだ距離があるにもかかわらず、右岸からのびる木の枝にパドルがぶつかりそうになるくらいのぎりぎりを進みながら、かすかに聞こえる水のくだける音に額の汗がにじんでゆく。しかし、轟音に聞こえた水の音は、小川のせせらぎであり、大きなカーブを曲がると、そこにはいつもと変わらない穏やかなユーコンの流れがあった。まだ見ぬ物への恐怖は、想像の中で膨らみ巨大な黒い塊となって胸の中でうごめき続ける。
震える手を押さえるようにパドルを握りしめるが、いつまでも聞こえてくるのは小川のせせらぎばかりだった。本当にファイブフィンガーはあるのか。そんな願いにも近い思いが頭をよぎった。もし、そんな物はなくずっとこの穏やかな流れが続くのなら、その流れに乗っていたい。肩の力が抜け始め、タバコに火をつける。すると、巨大なカーブの先から明らかに今までとは違う種類の音が聞こえてきた。
低く、強く、空気までも振るわすような。
ファイブフィンガーラピッツだ。