ジョンソンズクロッシングを出発して1週間近くたったようだ。既に日付の感覚はない。その間、ヒトと名のつく生き物とは口をきいていない。テントから顔を出すと、テスリンリバーをカヌーやカヤックで通り過ぎていくその生き物たちを見かけるくらいだ。手を振ると、彼らも手を振り返してくる。その行為が分けもわからず嬉しい。自分もまた、ヒトと名のつく生き物であることを実感する瞬間だ。

 いつものようにコーヒーと目玉焼きとパンの簡単な朝食を済ませ、フネに荷物を積み込む。出発する前の一服。これも日課になっていた。ねぐらを提供してくれた地面への感謝と、これから出会う風景への挨拶だ。川に出てふと川地図に目を向けると、間もなくユーコンとの合流地点のようだ。慣れ親しんだテスリンが終わってしまう寂しさを感じつつも、憧れ続けたユーコンに出られるワクワクで、自然とパドルを水に入れる回数が増えていく。
 テスリンリバーの水は大量の砂を含み茶色に濁っている。フネを進めると水に含まれた砂が船底にこすれ、シャーという音が聞こえる。パドルを水に入れる音、風の音、時折聞こえる生き物たちの声。晴天の空から降り注ぐ肌を刺すような太陽を浴び、今、この瞬間しか聞くことのできないオーケストラの演奏を楽しみながらビールで喉を潤す。
 適度に酔っていると、感情が盛り上あがって些細なことでも敏感に感じることが出来るようになっていく。見えるもの、聞こえるもの、肌を触れていくもの、全てが愛おしく感じられた。
 そろそろユーコンが見えてきてもおかしくない頃だが、それらしき景色は見えてこない。川は下流にしか流れないので迷いようもないが、憧れ続けた川に出た瞬間はしっかり記憶に残したい。しかし、まぁいいさ。テスリンだろうがユーコンだろうが水が流れ、風が吹いている。極北の大地と「ユーコン」という言葉の響きに憧れ続け、この川のために全ての生活があった。そんな毎日を思い起こしてみても、今となってはどうでもいいことだった。たとえ知らないうちにユーコンに出ていたとしても、今自分が極北を旅している事実は変わらない。
 新しい缶ビールを開け、太陽の輝きに目を細めながら一口あおる。視線を前に戻すと、今までと違う風景が遥か先に広がっていることに気づいた。川幅が一気に広がり、水の色がくっきりと分かれていたのだ。茶色とエメラルドグリーンに。まるで、パレットの色と色の境のようにはっきりと。
 ユーコンリバーだ。
 フネを漕ぐことも忘れ、ビールを飲むことも忘れ、ただその目の前に広がるパレットに目を奪われ続けた。川の流れのスピードで、色の境目に近づいてゆく。視界に入ってくる色彩は茶色が徐々に減っていき、代わりに太陽に照らされたまぶしいエメラルドグリーンが支配してゆくようになる。
 憧れ続けた川。ユーコンは、世界の数えきれないくらいたくさんある川のただの一つだ。なぜこの川なのかと聞かれれば、極北の川で「ユーコン」だからとしか答えられない。しかし、ここにくれば何かがあると信じ続けてきた。
 フネはゆっくりとユーコンへと進んでいく。これからユーコンの旅が始まるのだ。
 「力抜けよ」
 船底から聞こえるテスリンの砂の音が、そう言った気がした。
 はっとなり、水面にそっと手を入れてみる。茶色からエメラルドグリーンへ。その色のくっきりとした境目は、涙でぼやけて見えた。
 

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